LET THERE BE MUSIC

自分の好きな音楽、アーティストに対する考察。まずは自己満

いいものもある、悪いものもある

 「いいものもある、悪いものもある」スネークマンショーのネタで使われていた言葉で、なぜかこれを僕と友達は気に入り、以降その友達と音楽の話をするときにたびたび会話に出てくるようになった。スネークマンショーのコントでは専門家がシュールな言葉でほとんど何も語ってないというところにこの言葉のギャグとしての意味があったのだろうが、今ではこれも一つの真実だろうというように思う。音楽評論家はその自分の感性で捉えた「いいもの」「悪いもの」という分類の結果に理由をつけていくことが仕事なのではないか。それはいいもの=「メジャー」悪いもの=「マイナー」というような馬鹿げた括りではなく(世の中の人々にはこうした、わかりやすくて安直な捉え方をする人々もいる)、あくまで自分がその音楽に対してどう思うかというその一点にだけ意味があるものだと考える。

 確かに、大衆に支持されているかどうかというのはその音楽の価値を測るひとつの指標にはなり得るが、ニコニコ動画からJ-POPシーンに躍り出た米津玄師のように、インディーミュージックが簡単にポップミュージックへと転じていく現代において、プロとアマに音楽のクオリティの差異を見つけるのは困難だ。なんといってもパソコンひとつで音楽が作れてしまう時代であるし、実際、ある番組で「プロになった後も音楽制作自体は何も変化しなかった」と岡崎体育は語っていた。「メジャー」なもの「マイナー」なものそれぞれに「いいものもある、悪いものもある」というのが妥当なのではないか。

 僕は、ある時期ノイズ音楽にハマっていた。既存のポピュラー音楽を聴きつくしたと感じていた当時の僕にとって精神性や方法論、難解な理論やコンセプトに彩られたノイズ音楽の世界はとても魅力的に見えたのである。前衛音楽専門店の店員がノイズを流しながら解説してくれる難解な言葉の数々に知的興奮を感じたし、勧められるままにCDも買った。自分でも家にあるシンセサイザーやレコーダーなどの機材でノイズ音楽をつくったりもしており、当時の音楽仲間にその路線を止められなければもっと深みにはまっていっていただろう。今思えば音楽を聴き尽くしたなんてあり得ず、自分が音楽を深く探究したり、聴きこんだりしていなかっただけだった。ロック音楽ひとつとってもその歴史や成り立ちは複雑なものだ。

 ノイズという極端な音楽を志向する人にはこうした思い込みがあると思う。つまり、「自分だけが音楽を知り尽くしている」という自惚だ。それは長く難解な論文のコンセプトありきで、聴いただけではわからない音楽を作る現代音楽の流れからきているのだと思う。知識人が理論立てて作るスノッブのための音楽、そんな音楽がレアもののように数量限定で作られて売られる。もちろんサブスクやYouTubeに音源はなくてCDを買わないと聴けない。こうしたマイナー性にありがたみを感じた人は音楽クオリティの考慮や「いいもの」「悪いもの」という感性による分別もせず、ただ宣伝文句に推されるがままにCDを買ってしまう。「マイナー」=「いいもの」という逆転した思い込みの一例だ。ノイズの「いいもの」はそのジャンルのパイオニアで、なおかつ音楽的なMerzbowぐらいで僕には充分だった。