LET THERE BE MUSIC

自分の好きな音楽、アーティストに対する考察。まずは自己満

続、評論とは

 僕はオタクというほどアニメにも漫画にも造詣は深くない。ゲームだって趣味の一つではあるが、ゲーマーと呼ばれる周りの友人ほど熱心ではなく、やり込むことなど今まで一度もなかった。僕の一番の趣味といえる音楽鑑賞と比べたらそれらに対する情熱はだいぶ落ちる。しかし、オタクカルチャーを批評して語る人たちの動画を見るのは好きで、最近YouTubeでよく見るのは岡田斗司夫山田玲司のチャンネルだ。

 この人たちの何が良いかというと、自分の言葉で作品や文化を語ることができるところだ。インテリ味溢れるむずかしい概念や、硬い言葉による批評にならず、あくまで口語でキャッチーに表現していながらもなるほど!としっかりと納得のいくものに仕上がっていることがすごいと思うのだ。「いわゆる〜史の中のここに位置付けられる作品で……」といった美術史のような硬い表現ではなく、いきなり「手塚治虫はロックだ」と言い切り、笑わせながらもちゃんと聞かせる内容にしている。だからといってただの感想ではなく、どういう観点からそうなのかという根拠を本やインタビューから引用し、対象をきちんと調べあげた上で自分の言葉で表現し直している。評論とはこうあるべきなんじゃないかと思うひとつのモデルだ。

 評論の意味とは、人がまだ知らない人物や作品の魅力を伝えることにあるのだと思う。そのためにどう伝えるのがいちばん面白いか、的確か、言葉を練って探っていくのだ。古い人物や作品の場合、それを現代風に言うとこうだよね、という発想もあれば、あるジャンルの作品を全く別ジャンルのものに例えたりする。

 また対象に対する愛が強すぎる例として、山田玲司手塚治虫に対する評論のようにいくとこまでいってしまうと、手塚治虫を憑依させてるかの如く、自分のことのように手塚の思考や、感じ方、喋り方を語りだしたりもする。そこには手塚の知られざる一面やダークサイドについての話も含まれていた。評論に正確さを求める人にとっては信じられないだろうが、手塚治虫のような故人に対してできるアプローチ、広義の意味での人物解釈として有効なんじゃないかと思った。何よりこうした新しい手塚治虫像、解釈を見せてくれることで新しく手塚を知った視聴者がより興味を持てるようになるし、古いファンでも手塚に新しい魅力を感じたり、作品の解釈の幅が広がって楽しくなる。前述の評論の意味という観点からは全く正しい。

 だから僕は今まで割とオーソドックスに評論を書こうとしていたがもっと自由でもいいんじゃないかと思った。ジミヘンとマイルスの架空の対談でも書いたり、デヴィッドボウイを憑依してアルバムレビューでもしてみようかな。