LET THERE BE MUSIC

自分の好きな音楽、アーティストに対する考察。まずは自己満

あがた森魚の世界『乙女の儚夢』

 高校生の時『乙女の儚夢』というアルバムを聴いた。きっかけはよく覚えていないが、おそらくイエローモンキーの吉井和哉さんの影響だったと思う。当時、大学受験が憂鬱で中二病をこじらせてしまい、その鬱屈した気持ちをつげ義春の漫画を読んだり、モンティパイソンを観たりすることで発散していた僕にとってこのアルバムと次の『臆無情』はまさにドストライクな音楽だった。ベルウッドというレーベルを知ったのもこの頃で、日本にもアンダーグラウンド、アーティスト第一主義の音楽の流れがあったことにとても驚き、感動し、自分のための音楽とだとさえ思った。

 当時、あがた森魚を聴いていたときの僕はとにかく歌の世界に浸りきっていて、詞の意味もよく理解していないのにノスタルジックで切ない気持ちになっていた。いい歳になり感受性もある程度落ち着いてきた今、もうその時のような気持ちにはもうなれないが、改めて『乙女の儚夢』を聴いてみる。

 ベルウッドは第一弾アーティストとしてあがた森魚は売り出されたようだが、フォークといえるのはアコースティックギターの弾き語りを基調としているという点だけであり、実際にはアルバムの音楽は戦前歌謡、カントリー、ブルース、ロック、を縦横無尽にあがた流に消化しているもので実に幅広い音楽である。バンド演奏はのちにムーンラーダースとなるはちみつぱいが担当しており、あがた森魚をディランと見立て、ザ・バンドのようなルーツ音楽を消化したアメリカンロックを聴かせてくれる。アメリカンロックを標榜した同時代の日本のバンドは、バッファロースプリングフィールドサウンドを目指したはっぴいえんどのように他にもいるが、あがた森魚が真にオリジナルであるのは大正ロマン稲垣足穂、少女漫画、ガロのようなノスタルジックで文学的なカルチャーをロックの世界に持ってきたところだろう(赤色エレジーは元々ガロで林静一により連載された同名の漫画をモチーフとした曲)。アルバムでは緑魔子による舞台の台詞のような少女の語りや、市場の見世物小屋の主人の宣伝文句が曲にはさまれる映画的な構成になっている。当時としても古臭いと感じられたであろう表現をあえて多用する詞の世界から、ロックにおおよそ使われることがないアコーディオンやバイオリン、古めかしいストリングスなども使われる音の配置まで、一つのコンセプトアルバムを徹底的につくりあげている。それらがわざとらしく聴こえないのは、声が裏返るのもいとわない泣いているようなビブラートのあがた独特の歌い方がアルバムの世界観にぴったりハマっているからだろう。あがた森魚は最初からあがた森魚だったのだと感じさせる名盤である。