LET THERE BE MUSIC

自分の好きな音楽、アーティストに対する考察。まずは自己満

人間ジョン・レノン

 映画『Imagine:John Lennon』で印象的な場面があった。場所はジョンの邸宅の扉の前、イアンギラン似の大柄なヒッピーの男がジョンとヨーコを前にしている。屋敷の助手から、妙な男が毎晩庭に潜んでいるという報告があったようで、ついにジョンはその問題の男と相対したわけである。以下、ジョンと男の会話のやりとりを引用した。会話の初めがジョン、次が男の順である。

 

 「 曲と現実を混同するなよ。君の人生に似てるのは僕の曲だけじゃない。会ってわかっただろ、僕はただの男だ」

「僕はもし会えたら分かると思ったんだ」

「何が?」

「一体感だ」

「何だって一体化する。クスリをやれば何でもだ」

「あなたの曲に”君は重い荷を背負い続けるのか”と」

「ポールの詩だ。だが皆のことを歌っている」

「”すべては光り輝く 行く手を阻むものはない”は?」

「僕は言葉で遊ぶんだ。その曲に意味などない。ディランも詩で遊んでる。言葉を選び1つに結びつけるんだ。意味はあったりなかったりだ。最新のLPに僕の現実がある。人は夢だけに生きれば終わりだ」 

「特に誰かを思って歌うのか」

「君のことは思えない」

「僕だとは言わないよ。ただ誰かをだ」

「自分を思う。精々、恋の歌でヨーコだ。考えるのは”今朝は快便だった”とかいうことだ。"ヨーコを愛してるとかね” 自分の歌がほかの人の人生と似ててもしかたない」

 

その後、ジョンは「腹は減ったか。何か食べよう」と男を邸内に招いて一緒に食事をとっていた。

 ビートルズやジョンの曲を聴いて感動しまるで自分のことを歌っているようだと思い、ジョンに感じた一体感を確かめようと邸宅へ忍び込んで、待ち伏せしていたヒッピー。ドラッグの影響もあるのかもしれないが、彼の青く澄んだ目は美しく、心からジョンの曲に対して共感していたのだとわかる。それに対して曲と現実は違う、と突き放すように男に悟すジョン。ヨーコによるとジョンはこうした人たちは自分の曲が生んだと責任を感じていたようだ。

 ファンが想像するアーティスト像とアーティスト本人の現実の姿、作られた作品に対して深読みしすぎることで極端な行為に走ってしまうファン。こうした問題はこのジョンの例だけではなく、いろんなところで見られる。清純なイメージを売っているアイドルに交際が発覚したときに裏切られたと激昂し、ネットで叩いて炎上させるオタクなどはその一部だ。ジョンはアイドルではないが、アーティストとしての自己主張は強く特に平和活動を熱心にしており、メッセージソングも多く発表していたことで当時のFBIにマークされるほど、世界に対して多大な影響を与えていた。そんなジョンに対して神々しい聖人のようなイメージを持つファンも少なくなかっただろう。

 ジョンの邸宅に潜り込んだ、このピュアなヒッピーは神のような存在であるジョンに救済を求めていたのだと思う。普通に考えればジョンも同じ人間で、僕らと同じでくだらないことで笑えば、うんこもおしっこもして、いつかは死んでしまう人間だ。それがわからずに強引な方法で会いに来ている時点で常軌を逸しているのは明白だが、ジョンはガードに追い出させることもなく、「自分も同じ人間であり、作品はあくまでフィクション、君の人生に責任は持てない」ということを面と向かって対話で伝え、その上、一晩中待ち続けた彼に対して空腹ではないかと家に上げて一緒に朝食を摂ったのだ。これはなかなか出来ることではないと思う。あのヒッピーは神じゃなく、人間ジョン・レノンに対してより大きな親しみを持ったことだろう。

 人間ジョン・レノンは酒飲んで暴れて、ヨーコがいなきゃどうしようもないとぼやく、どうしようもないロッカーでもあったのだ。それだけに、ジョンの悲劇的な死後、彼を神棚に上げて平和の象徴として布教しているオノ・ヨーコの振る舞いに違和感を感じるのは僕だけだろうか。