LET THERE BE MUSIC

自分の好きな音楽、アーティストに対する考察。まずは自己満

音楽評論についてのあれこれ

 今日は知恩寺の古本祭りに行ってきた。何か記事を書く際に参照できるような音楽に関する本があればいいと思って行ったところ、思いがけず会場に入っていきなりMERZBOWの『ノイズ・ウォー』を見つけてテンションがあがったが、プレミアで高価すぎたので購入は断念した。その後、会場の中で見かけた古い時代の日本評論家のJAZZに関する本を何ページか開いてみると、概念的で抽象的な言葉ばっかりで何を言ってるのかよくわからないが、自信たっぷりで断定口調の文章だった。僕からすれば最低な文章だが、当時はこういった理屈をこねくり回した思想書の延長線上にあるような文章が音楽評論では受けていたのだろうか。音楽そのものを語るというよりはそれを聴いている「私」のインテリジェンスに焦点があっており、「俺ってすごいだろ?」という著者のニヤリ顔が見えてきそうな文章だった。

 確かに、他人の作品の音楽を語るのはいつでも受け取った側の自分から生まれる表現であり、完全に客観的な評論など存在しないだろう。しかし、作品やアーティストを超えて自分が主役になろうとするような文章はいかがなものかと思う。音楽評論家に限らずあらゆる評論家は二次的な存在であり、評論するあなたがアーティストだというわけではないからだ。それを観て、聴いてどう考え、どう思ったという「自分」と「作品それ自体」の解説の割合は、前者が多すぎると客観性がなく、後者ばかりだと味気ない。そんな微妙なバランスの上に理想的な評論はあるのではないだろうか。完全な客観性はなくても、少なくともフェアであろうとする、理解しようとすることはできるだろう。誰かにとって価値のない音楽は誰かにとっての宝物かも知れないということは常に念頭に置いておきたい。僕の尊敬する映画評論家の淀川長治はテレビのロードショーがどんなに酷い作品であってもそれをけなしたり、ネガティブに解説することはしなかったという。これから作品を見る人々の気持ちを削ぐようなことはしたくなかったし、「どんな作品にも一つは必ず褒められるところがある」というのが淀川さんの信条だったからだ。

 僕ができそうなことはなんだろうか。わからない音楽は記事にしない。自分が好きで素晴らしいと思う音楽だけを評論すること。できるだけ平易な文章でわかりやすい文章を目指すこと。音楽に限らず色々な本や映画に触れて自分の見識を広げること。といったところだろうか。