LET THERE BE MUSIC

自分の好きな音楽、アーティストに対する考察。まずは自己満

エルヴィスにハマりそう

 先日、U - NEXTで観た映画『ELVIS』がきっかけでエルヴィス・プレスリーにハマりそうだ。

 正直いうとこの映画を観るまで私はエルヴィスに対して過小評価をしていたと思う。もちろん、ポピュラー音楽を探求する身として、ロックという音楽を作り上げた偉大なオリジネイターの一人であり、白人であるエルヴィスが黒人の声と間違えられた話、テレビ出演の際の腰の動きが卑猥であるとして物議を醸し出したこととともに、1950〜60sのあの時代のアメリカ文化を象徴するようなアイコンでもあることは知っていた(米ドラマ、フルハウスでも、登場人物であるロッカーのジェシーが憧れる存在だった)。しかし、エルヴィスの後に続いたビートルズのような存在と比べると、自分でオリジナル曲を書いたわけでもなく、むしろ黒人からロックを奪ったと主に黒人のアーティストから言われることもあるように、音楽史的な重要度は薄く、ロックを忘れ音楽産業に取りこまれていった挙句、晩年は甘い揚げたサンドイッチで命を落とした、いわゆる昔はすごかった往年のロッカーというイメージしかなかった。

 しかし、映画や、その後YouTubeで観た映像を観ると、作詞、作曲のできるシンガーソングライターでなくとも(そもそも、シンガーソングライターという概念そのものがエルヴィスのデビューした時代は一般的ではなかった)、エルヴィスはその声、ステージアクション、ファッション、存在そのもので自らを表現してしまえるので、全く問題のないことがわかった。それは映画のラストで唯一、本人の映像が使われていたエルヴィスの死の3週間前に歌われたライブでのライチャスブラザーズのカバー、『アンチェインドメロディ』でよくわかる。晩年のエルヴィスはかなり太っており全身白のジャンプスーツが滑稽に見えるほどであるが、この曲でのエルヴィスから絞り出される歌声は圧倒的で、まるで自分の命を削り出して歌ってるように見えるほどの熱唱である。ホテル専属のアーティストとして望まぬショーをさせられていたという実話の背景を知った上でこの映像を見ると、まさにファンのためにスターとしての身を捧げた人生なのだという映画のセリフが胸に沁みて切なくなってくる。エルヴィスは幸せだったのだろうか、成功と幸せはイコールではないのだなと色々考えてしまった。

 映画の中では、ブラックミュージックに対するエルヴィスのリスペクトがよくわかるエピソードとともに、リトル・リチャード、B・B キング、ビッグ・ママ・ソーントン、ファッツ・ドミノなど、同時代に生きた黒人アーティストがたくさん出てくる。これは昨今のBLM運動に関連しての描写かもしれないが、エルヴィスを語る上でそのルーツ、ブルースやゴスペルなどのブラックミュージックが欠かせないということを考えるに必然であったと言えるかもしれない。リトルリチャードの歌う『トゥッティフルッティ』をいい曲だ、自分も歌いたいというエルヴィスに「君なら何倍も売れるよ」と取り巻きが言うシーンが印象的だった。黒人差別が露骨に横行していた時代、同じ曲を歌ってもエルヴィスは白人を対象にできたメジャーで、黒人アーティストは主に黒人のみに聴かれていたインディーであったからだ。その白人の音楽、黒人の音楽という壁を、白人であるエルヴィスが有名になることで壊したのであると考えると、その後に続く黒人アーティストにとってもエルヴィスは重要な存在であったといえるだろう。そうした人種の壁に対する挑戦を黒人側から同時代にポピュラー音楽の中でしていたのがサムクックだったのではないか。二人に接点はなかったのだろうか。色々と気になってくることが多くなった。